手ぬぐい題字と剣道修行の目的
― 道場訓話における教育的指導 ―
T 手ぬぐい題字と道場訓
剣道は長い歴史をもっているが,その流れの中で時代の影響を受けながら自らの姿を変え,また逆に人や時代に対して影響をも与えてきた。つまり人を教育し時代の変革にも役に立ってきた。
それぞれの道場には道場訓があり,道場の壁などいつでも見えるところに掲げられたり,稽古時に面をつける際に使う手ぬぐいにも道場訓が染められていることが多い。今回,手ぬぐい題字の意味を考えることで教育的指導がどのようにあるべきかを考えてみたい。
U 手ぬぐい題字
1 智仁勇(ちじんゆう) 故 竹田弘太朗範士 名古屋鉄道社長
智仁勇(ちじんゆう) |
「知・仁・勇の三者は,天下の達徳なり」これは政治の根本が修身にあることから,
その修身を具体化した君臣・父子・夫婦・兄弟・朋友の五達道(五倫の道ともいう)と,それを実践する根本の徳である知(智)・仁・勇について述べた『中庸』の言葉である。
すなわち,物事をみとおす知(智),思いやり・まごころの仁,思い切りの勇,この三つが世の中で人々があまねくおさめるべき徳なのである。剣道がめざすべき道においても同じことがいえる。何が正しいかを識る意の「智」,相手を理解する,相手の立場になってものが考えられる慈愛の心を「仁」,そして勇気をふるって打ち込む「勇」この智・仁・勇が一体となったものが剣の道である。しかしながら,正しいということにこだわると考えが狭くなり,頑固になる。慈悲,これに過ぎると弱くなる。また,勇,これに過ぎると蛮勇ということに陥りやすい。したがって正しいということにもとらわれない慈愛に満ちた力,これが剣道によって養われるところのものである。
2 晨睦(しんぼく)故 佐々木李邦範士 大阪産業大学教授
辞書によると「晨」は「あした。あさ。早朝。夜明け」,「睦」は「むつまじい。したしい。仲がよい」。そこで「晨睦」は「朝つとに起き,朝まだきに稽古する。その間はしたしくあれ」と解釈できる。「晨睦」とはつまり朝稽古を意味している。
3 百錬自得(ひゃくれんじとく)故 小森園正雄範士 日本武道館武道学園教授
百錬自得(ひゃくれんじとく) |
中庸に「人一たびしてこれを能くすれば,己これを百たびし,人十たびしてこれを能くすれば,己これを千たびす。果して此の道を能くせば,愚と錐も必ず明らかに,柔といえども必ず強し」とある。同じことを,人が一度でやったならば自分は百度努力し,人が十度くり返しできたことなら,自分は千度試みる努力をおしまない。この,人の百倍も努力して確実に体得する姿勢で事に臨むことで,道が明らかになり心も鍛えられるということである。
4 「無念無想」(むねんむそう) 故 大野操一郎範士 国士舘大学教授
「無念無想」(むねんむそう) |
古来,多くの流派で「無念無想」については述べられてきた。その中から大野範士が生涯,敬慕してやまなかった高野佐三郎範士の言葉を引用してみる。「無念無想といふことの如何なるものであるかは,説明することが困難である。ただ,多年鍛錬の結果,遂に其の心境に達して自得し得られるのである。心を明鏡止水の如くせよといふのも,心を止むる勿れといふのも,膽カ(たんりょく)を養へといふのも,皆無念無想となれといふことに外ならぬ」これは実に剣道の極致であって,精神がこの境に達してはじめて技術もまた光り輝くのである。この心境は禅でいうところの無念無想の境涯であり,宮本武蔵は春山和尚に,柳生宗矩は澤庵禅師に,山岡銭舟は滴水和尚に就いて教示を受け,この境涯に至っている。
5 拙守求真(せっしゅきゅうしん) 大森玄伯範士 広島大学師範
「拙守求真」全日本剣道道場連盟より発行されている『幼少年剣道悪癖矯正の参考』の中で次のように述べている。「つたなきを守って,まことを求める」わたしは,常にこの心で,平素の稽古に励んでいます。と申しますのは,わたしは生まれつき非常に不器用です。その不器用な者が,器用な人の猿真似をしてもそこには必ず破綻が生まれます。不器用な者は,その行う動作が下手でも,常に正しく,人一倍の努力をすることによって,やがて,その本質を究めることができるものと確信しています。その意味から,不器用は不器用なりに,努力を重ねなければならないと,「拙守求真」を座右の銘としています。範士はその言葉通り「剣道即生活」を実践。若い頃はもちろん,晩年も一日に2回稽古する日が週に4日もあるほどであった。剣道をこよなく愛し,稽古,稽古で稽古三昧の日々を送ってこられた範士の生きざまは,まさに「剣道家」と呼ぶにふさわしいものであった。範士は,広島大学の師範をつとめていた際,学生たちによく「覇者の剣ではなく王者の剣を学ばなければいけない」と諭していたという。上手,下手の剣道ではなく,「ほんもの」の剣道を修行しなさいという範士の言葉である。
6 至大至剛(しだいしごう)植田一範士 香川大学剣道師範
至大至剛(しだいしごう) |
植田一範士によると「『至大至剛』は,大に至り剛に至るで,私自身の修行にあわせて,今,青少年たちを指導する心構えになっている。大は大きく雄大であり,剛は意志の力,節操の堅くて強いこと,即ち直である。“この上もなく大きく育て,剛く育て”という願いを込めたものと解釈する。直とは至大至剛で,大悟にいたるまでの真直ぐな道である。邪なきは心の迷いなきことであり,道にそむくことなきは天理遵法の大精神であって,これこそ剣道修行の最終のものであろうと思う」そして最後に「こうした心の持ち方,言動,行動,人間形成を目指す基盤として,ただ道場の中だけでなく,広く社会生活を営む上において活かすこと,それが,今日生を受けた我々剣を学ぶ者の務めだと考えている」と結んでいる。
7 天心無極(てんしんむきょく) 故 玉利嘉章範士 全日本剣道連盟理事
天心は天真。春夏秋冬が規則正しく繰り返すごとく,宇宙の真理に終りはない。剣道の理念にうたわれた「理法」とは自然の理法,即ち天真のこと。つまり剣道とは,換言すれば,終りのない宇宙の真理を悟ること。そのためには心が大事であると玉利範土は言う。
8 碎啄同時(そったくどうじ) 故 池田 勇治範士 大阪大学剣道師範
碎啄同時(そったくどうじ) |
「碎啄同時」とはこれは禅門においてよく用いられる語である。卵が貯化する(かえる)時機になると,卵の中の雛鳥は内側からコツコツと殻をつつく。これを「碎」といい,それと時を同じくして,親鳥が外からコツコツとつつくのを「啄」という。この碎と啄とによって殻が割れ,雛が飛び出すわけだが,要はそのタイミングが大事であり,両者の呼吸がぴったり合った時に「生命」が誕生するのである。剣道でも同じことで,師は弟子の修行がひとつ上の段階になったところを見てとって,すかさず上達のヒントを与えてやらねばならないし,また弟子は,師からいかに立派な機縁を与えてもらっても,それに応じ,それを生かす境地に至っていなければ,なんの役にも立たない。人生万事″碎啄同時の機″であって,これを求めて修行するのが,本来の道の在り方ではないだろうか。
9 「至剣圓(しけんまどかなり)」八重口基定範士 大阪教育大学剣道師範
「至剣圓(しけんまどかなり)」 |
「至剣圓」とは字の如く,剣も至れば円になるという意である。すなわち剣道の稽古という行から道に進む。この基本の行を充分鍛錬することで,三昧力を養えば邪心もなくなり人格円満となり,その剣も角のとれたまろやかな正しい剣になるという教えである。「一円相」という禅語がある。一つの円い形であって,それは欠ける所もなく余す所もない,完全にして円満な意味を表わしている。一円柏は宇宙万象の本体・根源を指したもので,それが円満無欠にして,偉大なはたらきを具えている姿を,円によって表現したものだ。剣道についていえば,無心に剣道三昧となって円成することが,剣道の円相と言える。
平成15年8月に「長崎ゆめ総体剣道競技」が五島列島にて全国ではじめ離島開催になりました。その五島列島の大自然と共に剣道を学んだ馬場一門研修会において故馬場武雄氏は門下生に
『もののあわれを感じ,風流で,優雅さがあり,思いやりのある日本民族』づくりを目指すことを話していました。
1 「あわれ」哀れとは
ものに感動して発する声,同情などのしみじみとした感動をあらわし,深くしみじみと心をひかれる感じ,またそのような感じを起こさせる状態をあらわすとされる。「もののあわれ」はことばや文章として表しがたい言葉であるが,自然と親しみ,自然を愛し,自然から学ぶ中で「万物は皆同じように生成発展しながら生き,やがては死んでいくのである」という自然の大原則を知り,哀れみの心を持つ。道場で,生徒達にいろいろな話を通じて,このような情感を育てていく。剣道を通じて,すべての分野で心がけていかなければならない指導者のつとめである。またこのような精神的な面は,現在の日本人にとって,もっとも足りない精神的分野でもあり,教育全般から考えてみても,大切なことであろう。こうして培われた心から,風流洒脱の精神が育っていく。
2 「風流」とは
みやびやかであって,俗でないことをいう。日本の歴史や,文学・文化に親しみ,日本人としての豊かな情感を養う。日本の歴史・文学・文化は,日本の美しい自然によって生まれ育ったもので,自然とは切り離して考えることはできない。「もののあわれ」にしても同じで,日本の美しい自然の移り変わりによって,人の心は大きく左右されていく。生徒にとっては,学校の勉強としてではなく,寒稽古や暑中稽古を通じて,実際に「寒」とか「暑」を肌で感じ体験しているだけに,むしろ実感として理解できる。剣道は,道場での黙想・瞑想などそれを受け入る雰囲気を持っている。
3 「優雅」とは
やさしく,上品で,美しいということである。やさしく上品な姿や,言葉づかいや物腰の柔らかなことで,剣道では厳粛な礼儀作法,正座の美しい姿,稽古着の正しい着用,剣道具の着装,ひもの結び方,道場に於ける所作,各種作法の遵守などで身に付く。また,そのことは自然の美しさ,自然のたたずまいの中に求めることができる。自然の風姿からその「心」を学んで,はじめて自然と一体化することができるようになる。自然に学ぶ形や心が,おだやかな物腰,美しい所作を生み出し,それでいて毅然たる態度を育てていく。こうして心身ともに優雅さが培われていく。そして,こういった物腰や美しい所作が,物を大事に取り扱おうとする態度や心につながっていき,思いやりの心に結び付いていくのである。
4 「思いやり」とは
相手の立場になって考えるということである。自分のことだけでなく,他人のことに対しても気を配ることのできる,あたたかい心を持つことである。他人のことを考えることができる優しさや,心のゆとりを持たせる。そのために,剣道でも先輩,後輩の愛情に満ちた関係をつくる。あるいは物を大切にすることを教えるために用具を扱う作法などを厳格にしつける。こうしてはじめて,物にも心を感じ,「自然」と心が通い合うようになり,竹刀を大事に思う心や,一木一草に心を配るなどというような心が育ち,また「もののあわれ」に通じていく。
こういった身体の鍛練による教育分野と,心に訴えて行う教育分野のバランスが崩れずに,偏ることなく行われて,剣道においても全人教育がなされたと言えるのではないだろうか。
今おろそかにされている「心に訴える」教育を,常に「自然」を念頭におき,「自然」を手本にしながら推し進めていきたい。
〈主な参考文献〉
〈主な参考文献〉
『剣道日本』 スキージャーナル社
『剣道時代』 体育とスポーツ出版社
『林崎明神と林崎甚助重信』 林崎甚助源重信公資料研究委員会
『故事成語名言大辞典』大修館書店
『中国名言名句の辞典』小学館