今年正月三日に長崎歴史博物館で「長崎奉行所稽古始め剣道演武大会」が開催されました。初めて開催される行事として、長崎県剣道連盟も全面的に協力して盛会裡に終了しました。演武内容でさまざまな案が出てきましたが、長崎県に関係のある内容のものをということで、平戸藩に伝わった剣術の形で心形(しんぎょう)刀流(とうりゅう)という流派の木太刀の形をやってはどうかということになり、中学生二組が演じたわけです。

  この心形刀流は、今から約320年前の天和2年(1682年)に、伊庭(いば)()(すい)(けん)秀明(ひであき)という人が(はじ)めたといわれています。

  それから数代を経て、平戸藩主・松浦静山公が江戸で修行し奥義を極め、以来平戸藩に伝わったものです。静山公から更に数代を経て、幕末の頃、この流派の免許皆伝を受け、平戸藩最後の剣術指南役をつとめたという綾香(あやか)辰五郎が、明治4年廃藩置県の布令を機に、自分の故郷である、現在の松浦市上志佐町に引き上げ、農業をするかたわら、近在の若者に教え伝えたものです。

当時の若者であった松浦市志佐町の、今は亡き 岩佐飯重(はんじゅう)、同じく故 吉原秀穂(しゅうほ)の両先生が、昭和51年(31年前)に85歳という年齢をおして指導してくださったものであります。弟たちと4~5人で分担して覚えようと申し合わせて出かけてわけですが、6月頃の蒸し暑い日に、何回も何回も繰り返し指導していただきました。膝をついたり立ったりとお二人の年齢では無理な動作ではありましたが、さすがに昔鍛えただけあって数時間にわたる指導と、8ミリ撮影機(まだビデオがなく1本3分間のフイルム)での撮影に真剣に応じてくださいました。

指導を終えた両先生は往時をしのび「指南役は稽古がきびしく、一人去り二人去りして結局数人しか残らなかったが、畑仕事がすんだ後に遅くまで鍛えられ、ときには木刀で殴られながら稽古をしました。雨が降れば畑仕事がないので、朝から呼び出されて一日中稽古させられ、畑仕事もきついけれども、雨が降らないようにと祈ったものでした。」と笑いながら話してくださいました。

その映像も今は貴重な物となりましたが、机の引き出しの中に眠らせていては両先生に申し訳ないと思っていたときでしたから、奉行所での催しはこの映像をよみがえらせ、両先生にも喜んでもらえるチャンスとなりました。他の流派にしても書物では書き残されているのですが、それをカタチにして実際に演武するとなればなかなか難しいものです。しかし、この映像は動きとして捉えたものですから正確に伝えることができます。

ゆかりの地でもある平戸の剣道協会には、ぜひこの形を保存していただくようにと、DVDにダビングしてお願いしてあります。

今思えば、松浦市こそ郷土の大先輩である綾香辰五郎指南役や岩佐・吉原両先生が命を削って受継いできたこの形を伝承すべきではないかと思っています。

中央には、心形刀流の正統本家としての伝えられた形があるでしょう。しかし、両先生達が受継いだ形はそれはそれとして貴重ですからそのまま守っていきたいものです。

長崎県に伝わった数少ない古い流派の一つで、現存する唯一の(書き物でなく動きのあるもの)形として当時の剣術を知る上で大変貴重であり、長崎県の武道界における文化遺産であります。

 ゆかりの地で心形刀流が末永く伝承されなければなりませんが、それは現代の剣道人の責務であるとともに、もし復活するならば、その命脈を保ってくださった故岩佐・吉原両先生へのなによりの供養となることでしょう。是非長崎県で保存普及するよう遠く離れてはいますが、五島市がまずその橋渡しをしたいとおもっています。

子供達は形が大好きです。今、小学4年生以上の30名ぐらいが1本目から10本目まで覚えて稽古の前に演じています。


 

※ 八代目の伊庭軍兵衛秀業常同子⑧の道場は、千葉・斎藤・桃井とならんで、江戸の四大道場と言われた。安政5年8月(1858)病死。秀業は秀淵の弟子であったが、その養子となる。心形刀流中興の祖といわれる名剣士であった。享年48歳  

※ 九代目の伊庭軍兵衛秀俊常心子⑨も養子で、後に榊原健吉(直心影流)らとともに講武所の剣術教授方になった。1886死去(明治19年)

※ 伊庭八郎(幕臣)。兄秀俊の養子となる。文武に優れ幕府講武所に入る。鳥羽・伏見、彰義隊、函館榎本武揚軍に合流し、銃創を受けて没した (明治2年 1869年) 。幕末期有数の剣客だった。享年27歳

※ 静山公は、2代目秀康常全子の高弟である水谷権太夫忠辰常智子の系統で、その弟子岩間常稽子(あん)斎に学んだ。文武兼備の人であった。その著書「剣コウ」「甲子夜話」など有名である。

天保12年(1841)82歳で没す。(以上、「剣道500年史」P360による)

江戸の有名な四大道場   

千葉周作の玄武館(北辰一刀流・お玉が池・1794~1855)

斎藤弥九郎の練兵館(神道無念流・1798~1871)

桃井春蔵の江戸講武所(鏡新明智流・1825~1885)

伊庭軍兵衛秀業常同子・八代目(心形刀流・~1858)

松浦静山(1760~1841)について

江戸後期の大名で、安永三年(1774年)に将軍徳川家治に謁し、従五位下に叙せられ、壱岐守に任じられた。翌年平戸藩主を嗣ぐ。記憶力に恵まれ学問を愛し、藩校維新館設立して自らも学を講じ、学問・武芸の普及をはかった。その蔵書は約3万3千冊に及び、そのうち蘭書は約150冊といわれている。

武芸に通じ、とくに剣術は心形刀流の達人だった。文政4年(1821年)退隠後、甲子の夜に起草して以来、死に至る20年間、毎晩筆を執って「甲子夜話」正続各100巻、第3篇78巻を著わした。(以上コンサイス人名辞典より)

※ 剣術についての書も武蔵以上の評価を受けています。平戸へ行ったら資料館を訪ねて、静山公を偲んでぜひ勉強したいものです

 
演武で好評を博した「心形刀流」について         

(財)長崎県剣道連盟 副会長 馬場 武典
  
「剣報長崎」第27号 平成19年 3月 より

平成17年8月 長崎県少年錬成会において小学4年生~6年生に剣道の
礼儀作法を指導されている馬場武典先生 (佐世保市立三川内中学校)